研究の目的

 目の錯覚という身近で不思議な現象を、数学を使って調べ、その仕組みを明らかにしていきます。
 数学を使うメリットは、主に二つあります。第一に、現象を計算手続きという形で記述できますから、条件を変えると何が起こるかが予測できるようになります。第二に、錯覚の強さを錯視量という数値で表すことができますから、それを増やしたり減らしたりして錯覚効果をコントロールできるようになります。
 このメリットを生かして、応用分野も積極的に開発していきます。まず、錯視量を最小化することによって、認識しやすい環境を作り、安全性の向上に役立てます。また、錯視量を最大化することによって、新しい情報表現法を提供し、文化的豊かさの向上に役立てます。
 さらに、これらの研究活動を通して、知覚・認識の解明を支える柔軟でロバストな数理モデリング手法とそれを解析する計算理論を構築し、数学自体の発展にも貢献します。

研究の概要図

背景

 自然界において残された重要な研究課題の一つは、人の知能の解明である。そして、知能の代表的側面の一つが、環境を認識する知覚機能である。錯覚は、この知覚機 能を撹乱する現象であるが、望ましくない病理的現象というよりは、むしろ知覚に必要な機能がある場面で極端な形となって現れたものであり、普段は役に立っている機能で あるという認識が広まりつつある。したがって、錯覚を研究することは、知覚機能を正面から研究することに他ならない。しかも機能が極端な形で現れているため、知覚の本質 をとらえやすいと期待できる。
 錯覚の研究は、知覚心理学の分野などを中心として古くから行われており、すでに多くの学術的知見が蓄積されている。しかし、今までの研究は錯覚現象を観察して定性 的に論じるものが多く、より定量的な解析が望まれている。

研究のねらい・着眼点

 このような背景のもとで、錯視現象に焦点を合わせて、数理モデリングの手法を用いた数理科学・数理工学の立場から研究する。特に、(1)錯視の数理モデルを構築しそれを解析することによって錯視の仕組みを理解し、(2)錯視の効果を数量的に表現する方法を開発し、(3)その錯視量の最適化という手段によって錯視効果を制御する方法を開拓する。
 次に、その成果を、錯視量の最小化と最大化の二つの方向に応用する方法を構成することによって、社会に広く貢献する。
 第一の錯視量の最小化では、身の回りの状況を正しく認識できる環境整備の指針を与える。具体的には、状況誤認が原因となって起こる事故、道路傾斜の誤認が原因となって起こる渋滞などを回避するための数理的指針や、誤解を誘導する誇大広告を規制するための数理的指針などを与える。
 第二の錯視量の最大化では、錯視効果を増幅することによる新しい視覚表現の諸手法を開発し、生活を豊かにする手段を提供する。具体的には、重要な標識を目立たせることによる見落としの防止、錯視を利用した新しいエンターテイメント手段の提供、錯視効果を利用した新しい芸術表現の提供などに役立てる。
 さらに、上述の数理モデリングを通した錯視の理解と、その成果の社会還元を繰り返すことによって、知覚・認識の解明を支えることのできる柔軟でロバストな数理的モデリング手法とそれを解析する計算理論を構築する。

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コンセプト

 本研究で第一に掲げるコンセプトは、錯視の数理モデルを介した解析である。数理モデルによって錯視を記述できると、錯視現象を計算という手段によって再現・説明でき、錯視の強さを数値によって定量的に表現できるようになる。さらに、条件を変えると何が起こるかも、計算という手続きによって予測できるようになる。これらの方法とその効果を総称したコンセプトが「計算錯覚学(computational illusion)」という名称である。これは、私たちの造語である。このコンセプトのもとに、国内および海外の錯覚研究者と連携して、錯覚研究の新しい方向を開拓していきたい。
 第二に、錯視量の最適化も、私たちの研究の基本コンセプトのひとつである。これは、数理モデルを用いて錯視の効果を数量化できるからこそ可能になるもので、これによって多くの実用的応用の可能性が開ける。すなわち、錯視量の最小化によって、安全な社会作りに貢献し、逆に錯視量の最大化によって、新しいメディア表現を提供できる。
 第三の基本コンセプトは、錯視現象のモデル化とそれを支える計算手続きにおいて人の柔軟な知覚機能を記述・操作できるロバストな計算手法の確立である。知覚を含む人の振る舞いは、単純な数学で記述できる明快なものではなく、不確定性や例外の混在した泥臭いものである。これを記述するモデル化において、既存の数学で記述できる部分だけを掬い取るという態度をとると、現象の本質を逃すことになりかねない。
 本研究では、このような態度は戒め、現象の基本部分を漏らさない数理モデルを追及する。このような態度で数理モデルを追求すると、既存の数学だけでは不十分で、モデリングのための新しい数学の開拓がおのずと必要になることを、研究代表者は今まで多く経験している。そして、そのための数学の開拓に成功すると、数学に対しても研究対象分野に対しても、新しい可能性を開くブレイクスルーとなる。この実体験を信じて、本研究でも現実を直視したロバスト計算手法の開発に取り組む。
 第四に、錯覚に関する研究活動の拠点としての錯覚美術館も本研究の基本コンセプトに掲げる。この錯覚美術館では、研究参加者の最新の錯覚作品を展示し、一般に無料公開して来館者からのアンケートによって錯視効果の測定をするとともに、全国の錯視研究者の研究交流拠点としての機能も持たせる。この錯覚美術館は、研究内容をわかり易く世に公開するという機能を持ち、研究費を使用することの説明責任を納税者に対して果たす機能を持つ。さらに、研究者の交流拠点としての機能によって、本研究に直接は関与していない錯覚研究者の英知を集めることもできるようになる。

将来展望

 本研究では錯視現象に焦点を合わせるが、将来に対しては、触覚、味覚、嗅覚、聴覚を含む人の五感に関する他の錯覚、さらに、人の社会活動における非合理行動なども錯覚とみなして、それらを横断的に眺めて共通原理を探る「錯覚科学」を目指す。研究代表者の今までの錯視の計算論的考察によって、少なくとも高次の錯視においては、「錯覚は、足りない情報を補おうとして失敗したときに生じる」という基本原理が見えてきており、この原理は、コミュニケーションにおける誤解などの錯覚にも通じるものであることを予感できている。この予感に基づいて、研究代表者はすでに昨年から、文部科学省科学研究費補助金の新学術研究領域として、「横断的錯覚科学」を提案している。これは、五感の錯覚に加えて、人の経済行動や投票行動における不合理な選択、コミュニケーションにおける誤解、メディア表現における錯誤なども含む広い範囲の人間活動を錯覚とみなして、その共通原理を探ろうとするものである。錯覚ミュージアムを研究交流拠点として、このような広い範囲の横断的錯覚科学の確立を目指すという最終目標の一ステップとして、本研究を位置づけている。

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